プロバスケットボールBリーグ1部(B1)で、昨年秋にプロデビューを果たした豊川市出身の山本楓己さん。生まれながらの重い食物アレルギーを抱えながら、それでも大好きなバスケットボールをあきらめなかった。小学校の卒業文集に書いた夢は「病気の子どもたちに夢や希望を与えるプロバスケットボール選手になる!」。その夢を叶え、今はハンディキャップを持つ子どもの希望であり続けるため、がむしゃらにボールを追いかけている。
バスケを始めたのは小学1年生の時。兄の影響で、ミニバスケットボールチーム「豊川ミニバスケットボール教室」に参加した。6年生の時には主将になり、東海大会で3位に入賞。豊川市立東部中学校でも、バスケ部で主将を務め、2年生には愛知県選抜として全国大会に出場。順調にバスケ道を進んだ。
ただ一方で、アレルギーは夢をつかもうとする山本さんの道をはばんだ。アレルギー発症の原因となる食物の種類が多かったため、小中高の12年間、給食を食べることができず、お母さんが作った弁当を持参する毎日。小さいころは、それをうらやむクラスメイトから心無い言葉を投げられることもあり、悲しく、悔しい気持ちでいっぱいだった。
5年生の時には、さらにつらい「食物依存性運動誘発アナフィラキシー」も発症。特定の食品を食べた後に運動をすると重篤なアレルギー症状を引き起こし、最悪の場合は死に至る。そのため、ショック状態になるのを防ぐ注射器(エピペン)が必携となった。中学3年生のバスケ部の朝練中には嘔吐して意識を失い、救急車で運ばれる事態に。この病気が原因で、「特待生として受け入れる」と言っていた学校から断られ、「県外の強豪高校でバスケを続ける」という希望が絶たれた。
自暴自棄になりかけた山本さんに手を差し伸べたのは周囲の大人たち。両親や中学の部活の顧問たちが受け入れ先を探し回ってくれ、バスケの盛んな安城学園高校(愛知県安城市)にたどり着いた。高校側は発症率が高いとされる食後2時間以内に山本さんの体育授業がないように時間割を組んでくれたり、生徒たちもエピペンの使い方を勉強してくれた。高校3年生で山本さんは主将になり、数年ぶりにチームをインターハイに導いた。「苦難を乗り越えてこられたのは、小中高を通して、先生らの支えがあったから。本当に感謝しています」。
大学は、特待生として県内強豪の名古屋学院大学に進学し、東海大会の優勝、インカレ(全日本)への連続出場などの成績を残した。在学中、「応援される選手になりたい」とSNSを始め、今も活発に情報発信などをしている。
卒業後はプロを目指すも、ケガなどの影響で2年間はチームに所属できず、2022年にプロバスケットボールBリーグ1部の王者「琉球ゴールデンキングス」の練習生に。2023年7月には活躍の場を求めて信州ブレイブウォリアーズに移籍し、再び練習生に。「契約してもらえるように死に物狂いでがんばりました」。シーズンスタートの10月にはついに選手登録され、長年の夢を叶えた。「本気でプロを目指して苦しんだ3年間でしたが、プロになれたことで、僕がつらいときに一緒に泣いてくれた家族や、協力してくれた周りの方々が喜んでくれたことが何よりうれしかったです」。
今もエピペンは必携、食べられるものにも制限があるが、大人になって自己管理できるようになった。「発症もなく、うまく付き合えています。お客さんの前でプレーできて毎日が楽しい。『日々成長』というチームスローガンを大切に、選手としても人間としても成長していきたいです。所属は東三河のチームではないですが、地元びいきということで、山本楓己も応援してくれるとありがたいです!」
人生のテーマは〝弱さを受け入れる強さ″。「僕はバスケ選手としては身長も高くないですし、キャリアがあるわけでもない。ただ、こんな僕でも努力してプロになれたので、ハンディキャップを抱えた子どもたちに『僕にもできるかもしれない』と希望もってもらえるようなプレーと活動を続けていきます」。