サラリーマン家庭の長男で、豊川東部中学校出身。桜丘高校では、体を動かすことが好きだったので陸上部に所属。色々とやんちゃもしたが、その頃の先生や知り合いが今でも店に来てくれて、そんな時は懐かしさでいっぱいになる。学校推薦で体育大学に行く道が開かれていたが、家庭の事情で断念。卒業後は、名古屋の中華料理店でアルバイトをしたのをきっかけに、栄にあったロイヤルホテル弁天閣で4年間、みっちり料理人として修行した。手先の器用さを活かして飾り切りなど腕前を発揮。調理師免許も取得し、さらに腕に自信をつけた。その後、一度はボウリングの楽しさに目覚め、ボウリング場の従業員食堂で働きながらプロを目指したことがあったが、それ以降は飲食業界一筋だ。
プロボウラーの夢をあきらめた頃、豊橋駅前で、友達が店長を務める中華料理店が開業した。顔を出すと、オープンしたての店はてんてこ舞い。「手伝って」と頼み込まれ、元来、断れない性格から、「いいよっ」と引き受けた。24歳、これが本格的に飲食業に携わるきっかけだった。その後、飲食業界では色々なことを経験。借金を抱えた店の再建を請け負い、手作り餃子の材料と技術を他店に売り、借金を返したこともあった。餃子は評判が良く、大きな需要があった。週末になると、たった一人、寝る間も惜しんで餃子のあん60キロ分を仕込んだ。材料を調達するため、キャベツ農家のもとに出向いて「この畑にあるキャベツを全部売ってくれ」と直談判したこともあった。これだけやっても自分の報酬は少しだったが、「男たるもの、やるといったらやる」という意思を貫き、約1年でその店の借金を返済できた。
これらの経験が自信になり、間もなく豊川市内に中華料理店を開業。漢詩が好きだったので、店名は中国の詩人「白楽天(はくらくてん)」に決めた。念願だった自分の店だが、駐車場なしの小さな貸店舗では客が増えず、市の保留地を購入し、移転・新築。開業にあたっては、借金返済時代に結婚し、今でも一番の理解者である妻、一子さんが金策に走ってくれた。しかし商売は甘くなかった。最初の3か月は珍しさで客も来たが、その後客足はぱったり。味は良いはずなのに、どうしたものか…。そこで、当時はまだ珍しかったランチを取り入れた。内容は大盛りの料理とライス、サラダ、漬物、フルーツ、スープで350円と、大安売り。さらにお客さんにお得感を感じてもらうように、料理は大きめのおぼんにセットして提供した。そのアイデアは大当たりし、多い日は150人が訪れるようになった。安く料理を提供し続けるために、地元の農家と、規格外の野菜を分けてもらえる関係性も作った。白楽天は繁盛店となったのだった。それから32年間がむしゃらに働き、57歳で店を閉めた。「商売は好調だったんだけどね。ちょっとあきちゃったっていうのかなあ」。そしてある日、たまたま通りかかった場所で、そば屋にぴったりな貸店舗を見つけた。「今度はそばだ!」とひらめいた。2003年(平成15年)に豊川市野口町で「玄子(くろこ)」を開店。店名は、歌舞伎や文楽で裏方を務める黒子がゆえんだ。文楽では人形が主役。「いつか自分も表舞台に立ちたい」と願う黒子の気持ちを表現し、熟練した職人を表す玄人(くろうと)と掛け合わせて名付けた。「実はそばが好きじゃなかった。だからこそ、自分でも美味しいと思えるそばを作ってみたいと思ってね」。とはいえ、そば屋に弟子入りしたわけでもなく、全て我流。ただ味覚に自信はあったし、餃子や焼売の皮作りで粉物の扱いはお手の物。「いける」と思った。麺打ち道具などは自作。試行錯誤を重ねて、理想の麺と、オリジナルのつゆを生み出した。天ぷらのサツマイモなどは、自ら畑で育てた。
そば業界ではゼロからのスタートだったが、口コミで徐々にお客さんが増え、数年で名店と呼ばれるようになった。連日大勢の人たちが訪れて忙しい日々。そうなるとまた新しい環境に身を置きたくなる性分だ。2020年にはアメリカの友人を介してシカゴでそば屋を開くことになっていた。ところが渡米直前に新型コロナウイルス感染症が発生。海外進出は断念した。
そうこうしているうちに、市内萩町のお客さんから「うちの町内でそば屋をやって、町を盛り上げてほしい」と頼まれた。「よっしゃ、やってみるか」。
場所は、無住の寺「慈恩寺」。地元住民や知り合いの大工などと協力して3年がかりで寺を改修。玄子は娘夫婦に託して2023年、そばを本堂で味わえる「寺そば萩山 慈恩寺」をオープンした。テーマは、仏道にちなんだ精進料理。玄子のレシピを引き継いだ上で、つゆをはじめ、天ぷらやデザートなど、全てのメニューが植物性だ。石臼を人力で回してそばの実をひいた十割そばは、風味豊かで特に人気。人里離れた場所にもかかわらず、遠方からのお客さんも訪れている。地域との関わりも大切にし、児童のそば打ち教室なども行っている。弟子も引き受けた。「熱意があったので、つい、いいよっ」ってね。
今ではすっかりそば好きになったという深津さんは「自分で作ったそばは、本当に美味しいね。お客さんたちにも『美味しい』と言ってもらえるのが最高のしあわせ。これからもみんなに喜んでもらえるそばを作っていきます。」と満面の笑み。「私の取り組みが、日本全国の廃寺などの活用に広がってくれると嬉しい」。