生まれは北海道新十津川町。田園風景が広がる自然豊かな場所で、米農家の両親と祖父母、妹2人の7人で暮らしていた。豊川市内の自動車部品製造会社で勤務し、工場の設備保全、大気及び水質などの環境、産業廃棄物管理などを担当した。1999年の大竜巻では、突風ではがれ飛んだ工場屋根への対応に追われた。
26歳で、豊川出身の女性と職場結婚。29歳の時には、愛着のある豊川市で公共の仕事がしたくなり、市の民間企業経験者職員採用試験を受けて採用された。市役所では、環境対策課(現・清掃事業課)に配属され、2年目には清掃工場に異動し、ごみ焼却炉の設備管理に携わった。それ以降、途中で異動はあったものの、清掃工場の仕事が圧倒的に多い。会社員時代に産業廃棄物関連業務をしていたことが市役所の仕事で活かされた。
初めて被災地に訪れたのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災のあと。自治体の応援職員派遣制度に手を挙げた。「困っている人たちがいるなら、その力になりたい」。
場所は宮城県南三陸町役場だ。2013年4月から1年間という長期派遣だったが、職場も家族も快く送り出してくれた。震災から2年が経っていたが、復興は程遠かった。環境対策課に配属され、震災関連に限らない全般的な業務に携わった。役場には自ら被災した人たちもいて、当時は全体の約3分の1を他市町村の応援職員が補っていた。佐藤仁町長を筆頭に職員たちは明るく務めていたが、一歩外に出ると、壊れた建物や道路がそのまま残され、ガレキの山が点在していた。
南三陸は海の幸が豊富で、海鮮料理は絶品だった。仕事のあとは仮設店舗で夕飯を食べ、ご近所さんたちとの交流も生まれた。少しでも力になれればと、任期を終えて豊川に戻った後に、海鮮料理に欠かせない大葉を、豊川市から南三陸町に寄贈する取り組みなどを企画。また、豊川市の学校給食の材料として、東北の食材の購入・支援を進めた。
これらの体験を活かせるならと、環境省が災害廃棄物処理を経験した地方公共団体職員を対象に作った「災害廃棄物処理支援員」の人材バンクに登録した。
次の支援は、2019年10月の大型台風19号。環境省の依頼を受けた愛知県からの要請で、11月4~11日の8日間、甚大な浸水被害が起きた長野県長野市に、同じ清掃事業課の職員と2人、トラックで向かった。任務は災害廃棄物の処理支援。現地では、大量に発生した災害廃棄物を運搬することが急務だった。仕事をしながら、「豊川でも、この規模の災害は十分発生する可能性がある」と実感した。
そして次の支援は記憶にも新しい、2024年の元日に発生した能登半島地震。3月には石川県志賀町で10日間、4月には同県能登町で8日間にわたり、公費解体業務を支援した。能登町では地図を片手に一日に10キロ歩き回り、倒壊家屋を調査。地震から4カ月近く経つにもかかわらず、半壊以上の建物を住民が申請していないケースが3割以上もあるとわかった。「公費解体は自分たちで声を上げなければ進まないのに」と歯がゆさを感じつつ、一方で、町の人たちからの感謝の言葉に気持ちがほぐれた。
篠原さんが大切にしている言葉がある。「頼まれごとは試されごと」。実業家の名言で、“頼まれごとはその人への期待の表れ。チャンスと思って期待以上のことで返せば、きっと人生が豊かになる”という考え方だ。「これからも要請があったら災害支援に行きたいと思っています。山登りで体を鍛えていますし、いつでもスタンバイオッケーです」と篠原さん。さまざまな経験を活かして、愛知県主催の災害廃棄物研修会で講師を務めたり、地元の桜町小学校で、児童と教職員向けに被災地の話をしたこともある。「大事なのは各町内が自主的に備えること。そして自分たちから声を上げることです」。