豊川市の若手職員、中森俊仁さん。市役所で働くかたわら、愛知県内では珍しい学生プロレス組織がある愛知大学で、同好会のコーチ兼選手として活動中!!
――豊川市出身。5人家族で、3人きょうだいの末っ子だ。プロレスに目覚めたのは小学5年生の時。
野球少年だったので、YouTubeでよくプロ野球の動画なんかを見ていて、ある日、いつものように野球動画を見ようとして「プロ…」と検索すると、「プロレス」とうワードが上がってきた。怖いもの見たさでクリック。「もともとプロレスには良いイメージはなかったんですけど。ほら、血が出るとか、頭から落ちるとか…」。ところがそこから興味が沸き、空手をしていたこともあり、プロレスの知識が増えるにつれてどんどん興味が沸いた。そのうち自分でも技のまねごとをしたりして、運動場の砂場でプロレスごっこをして遊ぶようになった。中学2年生の夏には、初めて生でプロレスを観戦。高校教員の父親に頼み込み、愛知県体育館で開催された新日本プロレスの興行に連れて行ってもらった。その時の衝撃は今も忘れない。会場の熱気がすごかった。「とくにプロレス界のスター棚橋弘至選手の登場と決め台詞には、会場全体が沸き上がりました。僕もたくさんのファンたちと一体になったようで、感動しました」。
国府高校では硬式テニス部に所属。テニスは未経験だったが、団体戦のメンバーに選ばれるまで実力をつけることができた。それなりにがんばったと思う。ただ一方で、自宅では布団の上で前方宙返りをしたりバク宙をしたりするなど、プロレス熱は相変わらず。「いつかは本格的にプロレスをする」と心に決めていた。2年生の時にはプロレスができる大学を目指そうと決意。それまでは身が入らなかった勉強だったが、サークルに入りたい一心で猛烈に受験勉強し、名門「同志社大プロレス同盟」がある同志社大学に入学した。晴れてプロレスやり放題の環境を手に入れる。
ところがリングに上がった喜びもつかの間、思わぬ壁にぶつかった。「笑い話みたいですけど、リングのマットが硬くて、投げられたらめちゃめちゃ痛いということ」。トランポリンみたいに柔らかいと勘違いしていたのだ。これに耐えられるプロはすごいなあと感心。「それ以上に、自分に続けられるのか真剣に悩みました」。
とは言え、受け身がうまくなり、痛みに慣れていくにつれ、あらためてプロレスの面白さを実感し、仲間と過ごせる喜びをかみしめた。初試合は大学1年の10月。キャンパス内の食堂で開かれた興行だ。3年生相手の負け試合だったが、試合後の達成感が大きかった。これらの試合は配信されていて、見る側だったプロレスのYouTubeに、今、自分が出ていることがうれしかった。初勝利は2019年、大学2年の春だ。大柄ではないので、自分よりも体が大きい選手に立ち向かうためにはとび技が有効と考え、空中戦の技を磨いた。12月には180センチ90キロの対戦相手に高難度の必殺技「フェニックス・スプラッシュ」をかけ、京都統一ヘビー級王座に輝く。
しかし、その直後に新型コロナウイルス感染症が発生。チャンピオンベルトをつけて華やかに入場できたはずの興行も学祭も中止になり、練習すらできない状況が続いた。やりきれない思いの中、就職活動を開始。「実は子どもの頃からの夢は、公務員とプロレスラー。それで地元の豊川市役所に入る道を選びました」。地域福祉課に配属。プロレス競技からは遠ざかり、登山で体を鍛えた。転機が訪れたのは2024年1月。京都であった同志社プロレス同盟の45周年記念興行を、地元の愛知大学プロレス同好会の学生たちが見に来てくれた。そこで、「技術を教えてほしい」、「選手としても参加してほしい」と声をかけられた。「待ってました!」と思った。やっぱりリングに上がりたい。
4月、愛大同好会のコーチに就任した。自分も演者として動きつつ、選手たちにアドバイス。レベルの向上を実感している。市役所では、他課の職員から「よっチャンピオン」などと声をかけられ、少し照れくさい。
「プロレスありきの大学選びだったのに、親をはじめ、塾の先生や周りの人たちも応援してくれました。みんな温かいんです。そんな豊川市の人たちのために一生懸命働きたい。一方で、学生プロレスにもかかわり続けたいと思っています」。