財賀寺は、奈良時代の724年に僧の行基が開いたと伝わる高野山真言宗の古刹(こさつ)。2024年はお寺が開かれて1300年の節目に当たることから、26年ぶりに御開帳が行われる。この特別な行事を担い、何年もかけてさまざまな準備や事前イベントなどを開催してきた今の住職、第24世の西本全秀さん。その西本さんの生い立ち、僧侶としての日々などについて聞いた。
私の父は第23世住職の西本昭道、母は第22世太田啓道の娘で、姉と妹との3人きょうだい。自分は、小さいころから「いたずら小僧」だった。「大変いたずら好きでしたね~。でも叱られた記憶はほとんどない。姉曰く、『私たち姉妹とはまったく扱いが違った』そうです。将来跡継ぎになるかもしれない男の子ですから、ずいぶん優遇されていたんでしょうね」。お寺の檀家さん方からは「若」と呼ばれることもあった。寺は裕福ではなかったが地元の人たちから敬われており、「通っていた平尾小学校の先生が私を叱った時、『あの先生が財賀寺の息子を怒ったらしい』なんて話が広がることもあったらしい。先生方もずいぶんやりにくかったでしょうね」。とは言え、自分がそれを自覚したのはずっとあとになってからのこと。僧侶になろうと思ったのも大人になってからのことだ。体を動かすことが好きで、豊川市立中部中学校では卓球部の活動に夢中。練習にのめりこみ、市内大会で優勝した。勉強で困ることはなかった。国府高校では生徒会の活動などに没頭し、会長も務めた。3年生の時は国立理系クラス。一度は東京大学理科1類を目指したがボーダーラインだったため、文系の名古屋大学法学部に入った。名古屋大学での学びがきっかけの一つとなり、それ以降、平等や公平、公正というものに強くひかれるようになった。現在、お寺の他に、男女共同参画社会の実現を目指す市民活動団体に所属して活動している。
さて大学時代に話を戻すと、ビジネスマンになる想定で就職活動をしていたが、ある時ふと「お寺を継ぐのもいいな」という思いが沸いた。就活をやめて僧侶の道を選んだ。卒業後は高野山大学の大学院で、仏教について勉強。人生において、しっかりと勉強したのはこの大学院の3年間くらいだ。在学中の得度(とくど)の儀式には、父と当時の筆頭の檀家さんが参列してくれた。檀家さんが私に数珠をくださったのがうれしかった。
こうして25歳の時に財賀寺に入り、長らく住職である父を支えた。今から40年前の1984(昭和59)年に行われた本尊の御開帳では、そこに向けた準備を手伝ったり、顧問になっていただく方々に会いに行ったりする役目をした。その時の縁が、後々の活動につながった。青年会議所にも加入し、いい先輩にも巡り合え、多くのことを学んだ。「今でも私の行動の基本は、青年会議所の行動パターンがもと。ありがたい団体でした」。
2000(平成12)年には住職に就任。稚児練供養や大筆書きなどで知られる3月の「智恵文殊まつり」をはじめ、ヒメハルゼミの声を聴く集い、高野山への団体参拝など数々の行事を実施。2021(令和3)年ごろからは、毎月25日の文殊様の月例祭でマルシェを開催している。「お寺は、いわば皆さんが自由に使える公園のようなものだと思っています。ですから、『財賀寺でマルシェを開きたい』などという申し出は快く受け入れています」。マルシェでは、主催団体がキッチンカーやパフォーマンスを繰り広げて好評だ。そのほか、法螺貝(ほらがい)、ルーシーダットン、アイリッシュハープなどのグループ活動も許可している。
今年の御開帳の記念事業の一環で2015年から順次行ってきた市指定文化財「観音二十八部衆」全28体の修復も完了。「ご本尊のお前立様巡業」では、青年会議所時代の仲間などが協力してくれた。
「普段は見られない大切な仏様『千手観音像』を期間限定で一般公開する「御開帳」を機に、できるだけ多くの人たちに財賀寺に親しんでもらい、財賀寺の新たな面を見つけ出してほしいと思います」。この寺には、まだまだ市文化財級のモノはたくさん眠っていると思う。副住職である息子の行範は歴史に詳しく、古文書などを掘り起こしてくれており、それはさしずめ宝探しのようだ。「これから、お寺にとってはますます厳しい時代になると思いますが、息子は小学校の卒業アルバムで『将来なりたいのはお坊さん』と答えてくれています。自分で選んでお寺に入ってくれたので、しっかりやっていってくれると思っています」。