2024年のプロ野球ドラフト会議で、豊川高校野球部のモイセエフ・ニキータ選手(3年)が東京ヤクルトスワローズから2位指名を受け、入団が決まった。同校の生徒が在校中に指名を受けるのは27年ぶり。10月24日に開催されたドラフトで、名前を呼ばれた瞬間、確信と安堵が入り混じった笑顔で、監督と固く握手を交わしたニキータ選手。「絶対にプロ野球選手になる」という強い意志を持ち、親元から離れて寮生活をしながら練習に打ち込み、目標だった「プロ入り」の切符をつかみ取った。
――愛知県刈谷市生まれ、阿久比町育ち。6人家族で、両親と兄、弟が2人いる。父と母はロシア出身で、父は大学を卒業後、電気工学を学ぶために来日。現在は日本のメーカーの開発職だ。母は、父の大学時代の同級生。父と結婚して日本で出産・育児をし、今もなお子育て奮闘中だ。
父が空手の有段者だった影響もあり、4歳から空手を始め、小学生の時には東海大会で優勝した。野球を始めたのは小学1年生の時。兄の後を追って地元の軟式野球チーム「阿東パワーズ」に入ると、すぐ野球に夢中になった。「将来はプロ野球選手になる」と決意し、4年生からは、空手をやめて野球に専念。硬式のチーム「東海ボーイズ」に移籍し、全国の舞台を経験した。
野球以外の運動も好きで、小3の縄跳び大会では3分間に180回という二重跳びの新記録を出した。「トロフィーをもらいました。すごく練習したので、とてもうれしかったのを覚えています」。目標に向けてコツコツがんばる姿勢は、野球でも一緒だ。中学生になると「愛知衣浦リトルシニア」に入った。ポジションは投手や外野手。いっぽう、学校では陸上部で走り込んだ。それも野球に役立てるためだった。
中学を卒業し、スカウトの中から豊川高校・硬式野球部を選んだ。施設や練習環境が、最も自分の理想に近かったことが一番の理由だ。「毎日思う存分自主練がしたくて、グラウンドのすぐそばに寮があり、遅くまで練習できる環境が決め手でした」。初の寮生活だったが、練習に明け暮れ、ホームシックにかかっている暇はなかった。新入部員の自己紹介では「プロになりたい」と宣言。その気持ちを、長谷川裕記監督が後押ししてくれた。必須の課題は「体を大きくすること」。入学当時の身長・体重は180センチ、66キロで、とてもプロの世界では通用しない。そこから体重の増量に必死だった。週に1度、体重を測って監督に報告し、「来週までに、これだけ増やしてこい」と言われた分をまた増量する。ひたすら食べ、ウェイトトレーニングで体を作っていった。「もともとたくさん食べる方ではなかったので、かなり辛かった」。こうして肉体改造に成功し、今では182センチ、87キロと、20キロ以上体重が増えた。プレーでは1年生の時からベンチ入りし、2年生になる頃にはセンターに定着。バットにボールを当てる技術はもともと自信はあったが、体が大きくなるにつれ、力強くバットが振れるようになり、さらに長打が打てるようになった。
その成果を出せたのは2023年、2年生の秋の東海大会だ。4試合に出場し、打率6割2分5厘をマークできた。プロ野球のスカウトが自分を見に来はじめたのもこの頃。それ以前は、長谷川監督がスカウトやマスコミに向けて「プロを目指す、良い選手がいる。1度見に来てほしい」と声をかけてくれていたが、秋の東海大会以降は視察が本格的になった。少しずつ、プロ入りが現実味を帯びてきているのを感じ、ワクワクした。こうして迎えた2024年春の選抜高校野球大会。初戦で大会第1号のホームランを打てた。新基準の低反発バットだったこともあり、自分の名前を全国の人たちに知ってもらうきっかけにもなった。ただその試合では、3つの三振をしてチームも負けてしまったので、正直、残ったのは悔しさだけだった。
高校では毎日忙しくて、プライベートを楽しむ時間は少ないけれど、普段はYouTubeを見たり、たまの休みには仲間などと食事やボウリングなどに行ったりすることも。市内の観光スポットを訪れる余裕もあまりないが、毎年、年始には野球部で豊川稲荷を参拝。「チームが勝てるように」とみんなで手を合わせた。また、赤塚山公園は自分たちにとって、厳しい練習の場所。冬の強化週間には、早朝にグラウンドから赤塚山まで走り、公園内の階段を駆け上るトレーニングがあった。「ほんと、マジできつかったです」。
そして寮生活で仲間と過ごした時間は、かけがえのないものだ。悩みを打ち明け合ったり、冗談を言い合ったり。それ以上に有り難かったのは長谷川監督の存在。「僕もこれまでずっと順調だったわけでなくて。スランプで打てなかったり、スカウトが来ている時に限ってまったく結果を残せずに焦ったり。そのたびに、いつも監督が話を聞いてくれました。年齢も近いし、悩みの内容を分かってくれる、頼りになる存在です」。
豊川に来て、本当に良かったと思う。ここで、いろいろな人たちに巡り合い、いろいろな人たちに支えてもらったからこそ、こうしてプロ野球選手への道が開けた。「僕の最終学歴は『豊川高校』。豊川の名を背負ってプロの世界でがんばるので、応援をお願いします!卒業まであと少しですが、たくさんの思い出を作りたいです」。