豊川出身の江戸落語の真打、三遊亭萬橘さん。観客との距離感を大切にし、古典落語が持つ洒落やユーモアを現代に伝える落語家として評価が高い。落語の世界に入って今年で21年。東京都内を中心に、全国各地の落語会などで噺(はなし)を披露し、観客を楽しませている。若いころ、生きづらさを感じていたという萬橘さん。自分の居場所となった落語の話などを通じて、同じような悩みを持つ人たちにエールを送り、ふるさと豊川の今後への期待を語った。
家族は市職員の父と、母、姉の4人。子どもに多くの体験をさせたいという両親の考えにより、保育園からいろいろな習い事で大忙しだった。中学、高校は剣道部。「どうして剣道部かって言うと、自分は相当な怠け者だという自覚があったので何となく厳しそうなことをやっておけば、この先何があっても耐えられるんじゃないかと思ったから。落語の世界に入る時の師匠選びも、なるべく厳しそうな人を探しましたね」。高校時代にはこんなエピソードもある。生物の夏休みの宿題を「やる気が出なかったから」という理由で、白紙で出し、先生にひどく怒鳴られた。当の自分は「正直に答えただけなのに」と思っていたのだから、怠け者だったということに尽きる。一方で、校内の行事に3枚目役として呼ばれる一面もあった。笑いを生み出す場所に居心地の良さを感じるようになったのはこのころだ。そして友人を誘い、上京して漫才師になろうと決めた。法政大学に無事合格。ところが友人は受験に失敗して浪人。それを機に友人は違う道に進んだ。大学入学はもともと東京に出る口実に過ぎなかったので、漫才の相方を失った自分は途方に暮れてしまった。
こうして始まった大学生活は、想像を絶するくらい孤独だった。まわりに馴染めず、居場所もなかった。だからというわけでもなかったが、アルバイトをしてお金を貯め、2年の夏休みには意を決して日本を飛び出し、知り合いがいるケニアなどに2か月間滞在した。しかし帰国後は生活に前向きな変化もなく、それどころか全く学校に行かなくなり、結果的に留年。「その時、今でも忘れないんですけど、あれは朝7時。寝ていた私の枕元に父と母が立っていたんです。」
父母は私の留年を知ってショックを受け、駆けつけたのだった。私は2人に土下座して謝り、大学に通う許可を取り付けた。そんな状況でも大学を辞めたくなかった。「よくわからないけど、後戻りするのは耐えられなかったんです。まあ結局、後で中退しちゃうんですけどね」。
大学に通うきっかけづくりに、サークルに入ることを決めた。いろいろなサークルの中で、ただ一つ、自分の居場所があると思えたのが「落語研究会」だった。汚い部屋。寝袋にくるまっている人が、首だけ動かして「なに?」って。その繕わない、ありのままの感じに惹かれた。「20歳の頃、ひょっとしたらこのまま寂しく野垂れ死にするかも、と真剣に考えていて。全く興味がなかった落語だったんですが、思わずその場で『入ります』と」。結果的に落語研究会は、人間関係作りが下手な私が社会に出るための準備の場となった。今は感謝してもしきれない。「それに落語っていうのは、バカもスケベも、盗人でさえ、噺の主役になれる。それも居心地が良かったんでしょうね。ですから、今、生きづらいと感じている人の中には、落語の空気に触れれば助かる人たちもいるんじゃないかと、私は真剣に思っています」。
卒業を待たずに大学を中退。両親へのとっさの言い訳が「落語家になりたい」だった。本心ではなかったが、もう後には引けなかった。直感で、三遊亭圓橘(えんきつ)師匠に入門。見習い、前座、二ツ目を経て10年で真打に昇進。六代目圓楽師匠が特に目をかけてくれ、色々な現場で使ってくれた。その六代目は2022年に他界。「本当にかわいがってくれて。今も心細い気持ちです」。
現在は、各地での独演会や寄席の傍ら、落語のすそ野を広げようと、2019年、林家たけ平師匠と共同で運営する演芸小屋「にっぽり館」を荒川区で開き(現在は台東区に移転)、広く笑いを届けている。弟子は二人。扱いに苦労することも多いが、その一方で、彼らから教わることも山ほどある。
自分のあり方として目指しているのは、場に応じて必要とされる「ピース」になること。たとえば、ある落語会で、「何か足りないな」となった時に、真っ先に呼ばれるような。どんな立ち位置でもこなせるようなピースでいること、それがプロの落語家だと思っている。
「高座は一人ひとりが独立してやるものというイメージがあるが、完全にチームワークだと思っています。互いが引き立てあっているんですよね。それをお客様たちには見えないようにやるのが江戸落語の神髄だと思ってます」。
豊川を離れ、27年間外から見ていて思うのは、豊川市には、もう一度足元を見つめなおして、自分たちの土地にあるものを再発見、再確認してほしいということだ。たとえば、「市川少女歌舞伎」。昭和30年ごろ一世を風靡した劇団だが、その発祥は豊川稲荷門前町の少女たちだった。彼女たちは全国で活動し、東京の三越劇場・明治座をはじめとする一流の劇場でも歌舞伎を披露した。とはいえ、私もそのことを知ったのは、10年ほど前。義太夫を習っていて、ある時、師匠の四代目竹本綾之助に自分が豊川出身ということを話したら、すごく喜んで、「私、市川少女歌舞伎の出身なのよ」と。私もそれで関心を持ち、調べてみると、すごい一座だったと分かった。「のちの古典芸能に大きな影響を与えた文化の発信地だったわけですよ、豊川は。ただ私もですが、それを知っている市民の方が、今どれくらいいらっしゃるか。ケヤキ並木には少女歌舞伎の彫刻が立っています。そういう地元の誇れる文化が、もっと取り上げられるといいなあと思いますね。地元のことを、東京に出て自分からでなく、師匠から教えられたのは恥ずかしいことでしたしね。『自分たちの市にはこれがある』と、誇りをもって言えるようになってほしいですね」。