豊川市内で唯一の料理旅館「呑龍」は、風光明媚な三河湾を一望できる御津山の頂にある。その景色や四季の料理もさることながら、女将の波多野征矢子さん、嫁で若女将の波多野千恵さんの明るく丁寧な接客も名物だ。
呑龍は昭和43年、征矢子さんの夫の義能夫(よしのぶ)さんが開業した。義能夫さんは旧宝飯郡御津町の出身。8人兄弟の末っ子で、中学を卒業後、蒲郡市竹島町にある旧蒲郡ホテルの原点となった旅館「常盤館」に入り修業。名支配人の三村三時氏の計らいもあり、2年遅れで高校にも通った。義能夫さんはその恩に応えるべく、18年間に渡って常盤館で、三村氏からもてなしの心を学んだ。
呑龍の開業は、常盤館のお客様だった、日本を代表する優良企業の社長らがきっかけ。義能夫さんの接客姿勢や人柄に触れ、独立を後押しする声が上がったのだった。場所は子どもの頃から慣れ親しんだ御津山。麓の大恩寺が所有する300坪の土地を借りて開墾し、水や電気を引き、小さな建物からスタートした。呑龍という名は、群馬県の寺院「大光院」の通称「呑龍さま」から。常盤館のお客様だった住職から「独立したら呑龍と名付けるといい」と許された。旅館は大盛況。〝山菜料理″や、老舗味噌会社「カクキュー」さんが特別に卸してくれた〝八丁味噌″の料理が評判を呼んだ。
征矢子さんは名古屋生まれ、蒲郡育ち。父は陶芸家だった。高校時代の憧れは毎日新聞の女新聞記者で、新聞社に猛アタックの末、入社できたという。「皆に、(蒲郡の)ガマちゃんと呼ばれてかわいがってもらいましたね」。しかし始発の電車に乗り、時には終電で帰ってくるような日々だったため、母親が強く反対。やむなく4年後に退社した。「その後は蒲郡で少し働いて、結婚。気が付いたら女将ですよ」。義能夫さんとの馴れ初めは、常盤館に出入りしていた征矢子さんの父親が義能夫さんを気に入ったことだった。呑龍の開業時、征矢子さんは子育て真っ最中で、旅館業はまったくの素人。常盤館から吞龍に移ってくれた女中さんたちから厳しい教育を受け、女将の仕事を身につけた。
若女将の千恵さんは京都出身。高校卒業後、地元で医療事務をしながらピアノの講師をしていた。ある時、職場の同僚の誘いで出かけたパーティーで、大阪の大学生だった、呑龍の長男、裕介さんと知り合って交際に発展。裕介さんは大学卒業後の3年間、京都のホテルでホテル経営などについて学び、千恵さんは京都市内の有名料理店などで修業。出会いから6年後の昭和62年に結婚し、若女将になった。苦労して女将になった征矢子さんを尊敬し、ともに思いやりの接遇で、お客様たちを迎えている。
義能夫さんから主な仕事を引き継いだ裕介さんは、京都から料理人を連れてきて、専務として企画、市場開拓などを担当。カクキュー味噌を使ったレトルト「味噌カレー」は、中部国際空港セントレア自社店舗でも販売された。料理は新鮮な地元の食材にこだわり、野菜は大一青果で、魚介類は伊良湖魚市場で仲買の権利を持つ裕介さんが、伊良湖まで出かけて漁船から直接買い付けることもある。そのため鮮度は抜群だ。敷地内の植物でしつらえた正月の門松や、豪華なひな飾りなどもお客様方に好評だ。コロナ禍の不況からも徐々に回復し、現在はネットでも高評価の宿として、遠くの県からもお客様が訪れるようになってきた。現在は建物も大きくなり、屋上などから見える景色も評判。テレビなどでも紹介された。今後はホールの改装などを計画しており、景色を見下ろしながらヨガなどができるようになる予定だ。
千恵さんは「豊川に来て35年。気候が穏やかで人も温かく、住みよいこのまちが好き。特に呑龍から見える景色はうちの宝」と話し、征矢子さんは「お客様から『もう一度行きたい』と手紙をもらうと本当にうれしい。商売は人間と人間。これからも、出会いとご縁を大切にしていきたいです」と笑顔を向けた。